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リッキー・ロメロ (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
リッキー・ロメロ (プロレスラー)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リッキー・ロメロ (プロレスラー) : ウィキペディア日本語版
リッキー・ロメロ (プロレスラー)[ちょうおん]

リッキー・ロメロ"Rapid" Ricky Romero、本名:Enrique Gregory Romero1931年5月24日 - 2006年1月15日)は、アメリカ合衆国プロレスラーカリフォルニア州サンバーナーディーノ出身。
スーパーメックスSuperMex)の異名を持つメキシコ系アメリカ人のベビーフェイスとして、テキサス西部のアマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)を主戦場に、同地区のブッカーも務めた。
インディアンギミックで活躍したヤングブラッド3兄弟(ジェイマーククリス)の父親でもある。
== 来歴 ==
学生時代は野球で活躍し、マイナーリーグからのオファーも受けていたが、それを断ってメキシコ人レスラーのディアブロ・ベラスコに師事〔、2年間のトレーニングを経て1952年にデビュー。地元カリフォルニア南部のロサンゼルス地区でキャリアを積んだ後、1950年代後半よりテキサス西部のアマリロ地区に進出〔。
以後、ドリー・ファンク・シニアとのコンビでNWA南西部タッグ王座を再三獲得、1962年10月18日にはフリッツ・フォン・エリック&ジン・キニスキーの強力チームを破って戴冠している。以降もアマリロに定着し、後にブッカー業務も兼任するなど、同地区のプロモーターだったファンク・シニアのリング内外におけるパートナーを務めた〔。
他地区では、1967年に古巣ロサンゼルスのWWAにてペドロ・モラレスとタッグを組み、2月10日にハードボイルド・ハガティ&エル・シェリーフ、6月にキラー・カール・コックス&マイク・デビアスを破り、WWA世界タッグ王座を2回獲得。同年9月には日本プロレスに初来日、ターザン・タイラーとの異色コンビでアントニオ猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦している。1968年4月25日にはテキサス東部のダラス地区にて、ニック・ボックウィンクルと組んでクルトとカールのフォン・ブラウナー兄弟から同地区版のNWA世界タッグ王座を奪取した〔。
本拠地のアマリロではNWA北米ヘビー級王座を巡り、マイク・デビアス、ダッチ・サベージドン・ジャーディンパット・パターソンらと抗争。テリー・ファンクともタッグを組み、1969年キム・イル&パク・ソンの韓国人チームとNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を争っている。ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座にも何度となく挑戦し、1970年1月12日のエル・パソでの試合では60分時間切れ引き分けの死闘を演じた。
ロッキー・マウンテン・ヘビー級王者としても1970年代全般にわたって活躍し、ニューメキシコ州アルバカーキを拠点に、ブル・ラモスダスティ・ローデスハーリー・レイスゴードン・ネルソンサイクロン・ネグロカール・フォン・スタイガーらと防衛戦を展開。メキシコ系インディアンのブル・ラモスとは、アパッチ・ローハイド・マッチやインディアン・ストラップ・マッチなどのデスマッチで抗争を繰り広げた。1972年3月20日にはディック・マードックを破りテキサス・ブラスナックル王座を獲得、以降もボビー・ダンカンキラー・カール・クラップなどのラフファイターを相手にタイトルを争った。
1973年1月、覆面レスラーメヒコ・グランデ(''Mexico Grande'')に変身して全日本プロレスに来日。「アマリロ地区の番頭」「ファンク一家の参謀」として日本でも知名度があったにもかかわらず、以降も全日本プロレスには素顔で参戦することはなく、このギミックで通算3回来日した〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P70(2002年、日本スポーツ出版社)〕。1977年6月の最後の来日時には、アマリロでの対戦経験がある天龍源一郎の日本デビュー戦の相手を務めている(6月11日、世田谷区体育館にてマリオ・ミラノと組み、ジャイアント馬場&天龍と対戦)。
アマリロでは1976年2月27日、息子のシルバー・ストリークことスティーブン・ロメロ(ジェイ・ヤングブラッド)とのコンビでレオ・バーク&ザ・ビーストからNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を奪取〔。1979年4月には全日本プロレスの高千穂明久をパートナーに、ミスター・サトー&ミスター・ポーゴを破って同王座への通算11回目の戴冠を果たした〔。アマリロ地区は1970年代末にザ・ファンクスからディック・マードックとブラックジャック・マリガンに運営権が移行し、1981年にはロメロがマードック&マリガンの後任となったが、同年にNWAウエスタン・ステーツ・スポーツは活動を停止。
以降、太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングや中西部セントラル・ステーツ・レスリングなどを転戦。セントラル・ステーツ地区では1982年1月14日、エディ・ギルバートをパートナーにジェリー・ブラウン&ロン・マクファーレンからNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取、これが最後のタイトル戴冠となり、翌1983年に引退した〔。
2006年1月15日糖尿病による合併症のため死去〔〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リッキー・ロメロ (プロレスラー)」の詳細全文を読む




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